・創始者 深田千代子教祖
・現継承者 深田充啓教主
・信者数 46万人
・崇拝対象 大御親など
・本部所在地 兵庫県丹波市

教団の沿革

 創始者・深田千代子(本名:いち)は、1887年10月に、兵庫県氷上郡小川村字井原(現在の丹波市)にて、茶屋を経営している深田難吉・カルの長女として生まれる。生家は貧しかったが、父親は近くにある日吉神社に毎朝お参りを欠かしたことがないほど信仰心篤い人だった。母親を早くに亡くした千代子は、三治郎、太市の弟たちの世話をする傍ら、近所の子守に雇われていた。

 深田が20歳の時に、隣村の男で、当時27歳の笹倉三治と結婚し、深田長治初代教主を出産するが、その後夫は伊予に飛白の仕入れに行く途中に、旅中に知り合った2人連れに金品を取られて、毒殺されてしまう。それから1年後の1909年に、深田の住む村にて、芝居の巡業がやってくる。その一座の中の役者・河合静雄がいて、深田は河合を追って大阪に出て、河合と再婚し、大阪市南区円手町(現在の中央区)の長屋に住むようになる。田舎に子どもを残した為、養育費の仕送り、加え夫の河合が金遣いが荒いために深田は色々な仕事に従事すると言う苦しい生活を送っていた。

 そんな生活を送っていた1919年7月16日の33歳の時、深田が、『この女生まれつきよりそなわり 四十になれば神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる生まれであるが、あまり世の中が進み、七年早く行人となり、世の道具になるか、たまで働かすか、姿で働かすか』と言い出した。この「たまで働かすか」のたまとは、この姿のまま7年間神の仕事をするかと言う意味である。夫は「どうぞ姿のままで働かせてください」と思わず答えた。これを機に、深田は独り言を言うようになり、夜通しブツブツ声を出すときもあったという。
 近所の住民は当初深田を変人扱いするようになったが、霊感が当たるようになり、深田を神とする信者が増えていった。深田は信者たちに、「神様の言われた7年の行が終わったときは、自分の死ぬときだ」と予言し、その予言通りに1925年正月6日、39歳にて亡くなった。
 遺弟たちは悲しみにくれるものの、間もなく「円応修法会」と言う教団名で布教をはじめる。戦後になり、千代子の遺児・深田長治教主は、中学校教員を辞め宗教活動に専念し、この頃同教団が組織化されるようになった。1952年、宗教法人登記。

教団の行事

・1月1日 元旦祭
・1月6日 教祖祭(墓前祭、祥月祭)
・2月27日 (または直前の日曜日) 教主誕生祭
・4月6日 春季大祭
・6月26日 大地の御親祭
・7月15日 祖霊祭
・7月16日 (または直前の日曜日) 立教記念祭
・8月6日 平和祈願祭
・10月6日 秋季大祭
・11月23日 円応青年会結成記念大会
・12月6日 感謝祭
その他、毎月5日にお火たき祭、6日に例月祭がある。

関連リンク

公式ウェブサイト
ENSEI(円応教青年会)