・創始者 川合信水
・本部所在地 東京都文京区
・信者数 約3000人

教団の沿革
 創始者・川合信水は、1867年11月17日、医師立玄(はるつね)と、律の長男として、山梨県南都留郡にて生まれる。川合が5歳の時、隣人の死を体験し、悲しみに打たれ眠れなかったという。1889年、母と弟妹4人を亡くし、宗教的関心を深めるようになる。川合は、仏教等の古今の宗教書や、経典に解決を求めたが満たされず、独学で聖書を読むようになり、その中に救いを見出したが、教会に属する事をせず、キリスト教が説いている祈りは迷信だとも考えていた。
 しかしある日、あまりの苦悩に涙を流し川合は祈ったところ、今までの心の重荷が取り去られ、マタイ伝11章28節の「すべて疲れたる者、また、重荷を負える者は我に来たれ、我汝らを休ません。」と言う言葉を思い出し、歓喜に満たされ癒されるという体験をする。1890年、川合はメソジスト派の基督教講義所で洗礼を受けた。同月、キリスト教信者で評論家であった巌本善治は講演の為勝沼を訪れ、その時川合と出会い、川合は生涯の恩人と巌本を慕うようになる。巌本にすすめられ、上京した川合は東京女学雑誌社に入り、編集にあたる。その中で、文学者の北村透谷や島崎藤村、日本救世軍創始者の山室軍平、神学者の植村正久らと親交を深める。川合はキリスト教の全国伝道へ思いを馳せるが、使徒パウロに倣いまずは宗教の研究・経験を積まなければならないと思い、巌本の紹介で出会った川合の生涯の師となる押川方義の好意によって、1893年、東北学院の貸費生となる。川合は、キリスト教には神を信頼するだけでなく、神に合一するという面もあることを押川に教えられ、その境地に入りたいと川合は望み精進。1896年1月、川合は宮城野原で瞑想中に大歓喜に包まれ、神人合一、即ちキリストと合一するという体験をする。

 東北学院卒業後、川合は島崎藤村の後任として教職に就き、また寄宿舎舎監として同学院に勤務する。1899年には東北学院幹事斎藤壬生雄の長女ちよと結婚。1901年、押川方義が東北学院を辞任したのに伴ない川合も退職。その後山形県鶴岡で伝道に従事するものの、外国人宣教師と意見が合わず辞め、押川の紹介により函館毎日新聞の主筆となるが、選挙問題の論説が原因となって1年で退職。その後病気になり療養生活を送った。1904年、群馬県前橋の共愛女学校から招かれて、翌年には校長に就任するものの、自分の終生の使命はキリスト教の伝道であると自覚、1907年に同校を去り、その後上京。独立伝道活動をしていたが、1909年、加藤直士の紹介によって、熱心なキリスト教信者であった郡是製絲株式會社(現:グンゼ株式会社)社長・波多野鶴吉の招きに応じ、同社にて教育部を設立する。教育総理として、1935年の引退まで従業員教育に尽力。1915年、会社の社訓「完全訓」を制定。1918年に東京小石川に建てた至誠舎の院長として修道心がある学生の教育を始めた。1921年、瞑想中に孔子の魂との霊的な交わりとともに、直に神の心に触れたという体験をしたという。これによりキリストの心も孔子の精神もこれに他ならないと感得する。1927年にキリストの生涯を詠った詩「耶蘇基督讃」を著し、基督心宗を創設し、本部を山梨県富士吉田市に置いた。
 1948年には富士吉田市名誉市民となり、1962年7月3日に死去した。