・創始者 岡野聖憲
・現継承者 岡野聖法法主
・崇拝対象 天神地祇大神(主斎神)、五智如来(本尊)、解脱金剛
・信者数 18万2815人
・本部所在地 東京都新宿区
・機関誌 「解脱」「YG」
・教典 般若心経

教団の沿革
 創始者・岡野聖憲(幼名:英蔵)は、1881年11月28日、埼玉県北本市(当時の埼玉県北足立郡)の農家・岡野牧太郎、きせの次男として生まれる。
 1888年8歳で尋常小学校入学。1894年、東京の酒屋に奉公に出た。岡野は農業より商業を好んでいた。岡野は家の都合により実家に戻されるものの、農業の片手間ならと父親に商売を許され、賃機の商売を始めたが、失敗。1904年5月には朝鮮に渡り、翌年帰国。帰国後は織物業を再開。事業は順調で、召集に応じていた兄に代わって一家を切り盛りする。
その後事業が傾き1908年に脱税容疑で岡野は摘発される。家にその累が及ばぬように分家するものの、多額の借金返済のため実家は没落の一途をたどり、岡野は東京で働こうとするがうまく行かず、一時は浮浪者同然となった。
 沖仲仕として回漕店に入った岡野は、その仕事ぶりが認められて、1913年には別の店に引き抜かれるほどになり、彼は急に豊かになり、回漕店に勤める側ら仲間とともに金融会社等を開く。1916年から岡野の地元で始まった北本駅開設運動には、多額の寄付をするなど、彼は地元の発展のための援助を熱心に行った。1922年には勤めていた店から独立。海運業を始め、より一層働き財をなす一方享楽的な生活を送るようになり、芸者置屋や四谷に料亭を開き当時の内縁の妻に経営させたりする。

 1925年の春頃から岡野は、高熱を発す病気に罹り、死は間近いと診断される。そうしたある日、岡野は昏睡状態の中うわ言で、「甘茶、甘茶」と呟き、母は水さえ喉を通らなかった岡野に甘茶を飲ませると、甘茶だけは不思議と飲み込めた。こうして、甘茶を飲み続けるようになるが、容態はよくならず、それどころか半月を過ぎると、岡野の体から異臭が漂うようになった。そして昏睡状態は続いたままだった。岡野は唸され夢の中で恐怖の声を放つ。
 そのうち岡野は恐怖が薄れ、おぞましい気が満ちている世界が身の回りから消え、心が清らかにすんでいったのを覚えたという。その後岡野は血の混じった膿を吐き始め、吐き終えると彼の顔に生色が甦り、健康が回復した。この体験によって、人心救済の根源的ともいえる力が甘茶には秘められていると岡野は確信した。
 1928年ごろから、岡野は優れた霊能力の持ち主であると評判が広がり始め、岡野を訪れる人が増え出し、そうした人々に甘茶を仏前に供え、そのお下がりを飲むよう熱心にすすめた。そんな岡野を妻は理解できず、その後二人は正式に別れた。1929年1月1日、北本宿の天手力男尊を祀る小祠にて岡野は「太神(おおがみ)を世に出せ」と言う開教の啓示を受け、解脱会を発足した。

 同年5月、岡野は机に向かっていた。その時、岡野はあふれるばかりの力が体内にみなぎってくるのを感じる。その瞬間に巨大な金色の光が体内を貫くと同時に、金色の光が眼の前に渦巻いた。すると金色の霊文字が浮かび上がび、それとともに岡野の手がひとりでに動き出し、文字を写し取りだした。それは、「バン、ウン、タラク、キリク、アク」を意味する霊文字であった。これは、「大日、阿しゅく、宝生、阿弥陀、釈迦」を表す梵字であるが、岡野が写し取った霊文字は梵字そのものではなかったという。1931年には醍醐三法院で得度し、法名を聖憲とする。1940年、岡野は北本宿に「大日本(おおひのもと)精神碑」を建てた。1948年11月4日に岡野は死去した。1953年、岡野の甥である岡野聖法が法燈継承者となる。

教団の教義・特徴
同会独自の行である「秘義三法」を行うと、霊界の実在を確信することが出来、どのように生きるべきかが体験を通じ感得出来るという。「秘義三法」とは、「天茶供養」、「お浄め修法」、「御五法修行」である。

関連リンク
解脱錬心館
公式ウェブサイト