・創始者 始祖岡野正道大統理
・現継承者 岡野正純第三世統理
・崇拝対象 熟益開顕正法大曼荼羅
・信者数 41万589人
・機関紙 孝道新聞
・機関誌 まいとりー
・本部所在地 神奈川県横浜市
教団の沿革
創始者・岡野正道(しょうどう)(本名:正道(まさみち))は、1900年2月14日、岡野仙太郎・タキの長男として、茨城県かすみがうら市(当時の新治郡志士庫村)に生まれる。
1902年、岡野貴美子生まれる。
父親の仙太郎は、慶応大学卒の官吏で、新しい考えの持ち主で、厄害が起きるという日蓮の直筆と言われる法華曼荼羅を引き取ったこともあったという。父親は1909年に53歳で亡くなる。その後母親とは別れて暮らすことになるものの、正道は12歳のとき母親のいる横浜へ向かう。そこから錦城学園(当時の錦城中学校)に通うことになり、1917年に卒業。その後従兄の黒田担海(真崎邑四郎)に薦められて1918年に埼玉県川越市の天台宗星野山無量寿寺中院に出家。1919年4月3日に得度を受け昭貫という法名を授かる。
1921年、寺を出て上京。東京の電気医療機械商社に勤める。その後札幌に支店を設立。1923年会社は倒産したが札幌支店は独立したものの、関東大震災により、資材が入らなくなり閉鎖。その後上京し大崎電線と言う会社に勤める。同僚の計らいにより1924年貴美子と結婚。1925年に正道の長男正貫(本名:照勝)が生まれ、電話線加工とトランスの製造の仕事を始める。しかし金融恐慌により倒産。その後大阪の電機メーカーに勤めるが、倒産。岡野ラジオという電気屋を始める。1934年に霊友会に入会したが、翌年10月に脱会する。
1937年、鄰子生まれる。
1939年10月19日に横浜開港記念館でにあたる孝道会(孝道教団の前身)発会式が行われる。この孝道の「孝」は、親子の間の情愛、「道」はそこから生まれてくる人間界のすべてであり、これを体得したのが釈迦だという。なお、過去・現在・未来をつらぬく縦の孝と、全ての人に慈悲を及ぼす横の孝道と言うのがあり、これを説いたのが法華経であるという。
1948年9月21日に、横浜の鳥越山での大道場建設のための整地作業が始まる。1949年2月27日に、整地作業途中の一人の信者が江戸時代の高僧、日庭上人の坐像が掘り起こされる。1952年に宗教法人登記と同時に「孝道教団」に名称変更。同年3月15日に仏舎利殿の建設が開始。同年7月28日に孝道山本仏殿が遷座し、この地を教団本部と定めた。同年8月18日に比叡山から仏舎利を迎える。1953年、ラジオ番組「仏法と孝道」の放送がラジオ東京(現在のTBSラジオ)で始まる。
1955年、「平和の鐘」が落慶。同年8月8日に正貫第二世統理が比叡山根本中堂で得度し、「玄尚」という法号を授かる。ある夜、比叡山延暦寺の叡南祖賢大僧正の夢枕に大黒天が現れ、1956年5月、福田実衍大僧正が大黒天像を持って孝道山を訪れる(1990年に大黒堂が落慶)。1960年4月28日、比叡山から「不滅の法燈」を迎える。同年5月、仏舎利殿が落慶。同年10月28日、正貫の長男、正純生まれる。1963年、正貫、アメリカのカルフォルニアのクレアモント大学院で4年半に渡り比較宗教学を修める。同年9月25日、正貫の次男、洋尚生まれる(現在、佐和という妻、宏玄という息子がいる)。1966年1月1日、正貫の三男、宣勝生まれる(現在、智子という妻、悠一と言う息子がいる)。1975年、正純の妻、華蓮、香港にて生まれる。同年1月1日に、正貫、第二世統理に、鄰子、第二世副統理になる。
1976年12月21日、貴美子亡くなる。1978年8月15日、正道亡くなる。
1994年、正純、華蓮と結婚。2002年12月に正純・華蓮の長男・賢祥生まれる。2006年6月11日、正純、第三世統理に、華蓮、第三世副統理になる。
教団の教義・特色
孝道教団とは、歴史的に見ると最澄の法脈を日蓮に次いで表れた教団で、最澄の理論と日蓮の実践を併せ持ったのが岡野正道であると説く。
関連リンク
・新宗教探訪
・公式ウェブサイト
・現継承者 岡野正純第三世統理
・崇拝対象 熟益開顕正法大曼荼羅
・信者数 41万589人
・機関紙 孝道新聞
・機関誌 まいとりー
・本部所在地 神奈川県横浜市
教団の沿革
創始者・岡野正道(しょうどう)(本名:正道(まさみち))は、1900年2月14日、岡野仙太郎・タキの長男として、茨城県かすみがうら市(当時の新治郡志士庫村)に生まれる。
1902年、岡野貴美子生まれる。
父親の仙太郎は、慶応大学卒の官吏で、新しい考えの持ち主で、厄害が起きるという日蓮の直筆と言われる法華曼荼羅を引き取ったこともあったという。父親は1909年に53歳で亡くなる。その後母親とは別れて暮らすことになるものの、正道は12歳のとき母親のいる横浜へ向かう。そこから錦城学園(当時の錦城中学校)に通うことになり、1917年に卒業。その後従兄の黒田担海(真崎邑四郎)に薦められて1918年に埼玉県川越市の天台宗星野山無量寿寺中院に出家。1919年4月3日に得度を受け昭貫という法名を授かる。
1921年、寺を出て上京。東京の電気医療機械商社に勤める。その後札幌に支店を設立。1923年会社は倒産したが札幌支店は独立したものの、関東大震災により、資材が入らなくなり閉鎖。その後上京し大崎電線と言う会社に勤める。同僚の計らいにより1924年貴美子と結婚。1925年に正道の長男正貫(本名:照勝)が生まれ、電話線加工とトランスの製造の仕事を始める。しかし金融恐慌により倒産。その後大阪の電機メーカーに勤めるが、倒産。岡野ラジオという電気屋を始める。1934年に霊友会に入会したが、翌年10月に脱会する。
1937年、鄰子生まれる。
1939年10月19日に横浜開港記念館でにあたる孝道会(孝道教団の前身)発会式が行われる。この孝道の「孝」は、親子の間の情愛、「道」はそこから生まれてくる人間界のすべてであり、これを体得したのが釈迦だという。なお、過去・現在・未来をつらぬく縦の孝と、全ての人に慈悲を及ぼす横の孝道と言うのがあり、これを説いたのが法華経であるという。
1948年9月21日に、横浜の鳥越山での大道場建設のための整地作業が始まる。1949年2月27日に、整地作業途中の一人の信者が江戸時代の高僧、日庭上人の坐像が掘り起こされる。1952年に宗教法人登記と同時に「孝道教団」に名称変更。同年3月15日に仏舎利殿の建設が開始。同年7月28日に孝道山本仏殿が遷座し、この地を教団本部と定めた。同年8月18日に比叡山から仏舎利を迎える。1953年、ラジオ番組「仏法と孝道」の放送がラジオ東京(現在のTBSラジオ)で始まる。
1955年、「平和の鐘」が落慶。同年8月8日に正貫第二世統理が比叡山根本中堂で得度し、「玄尚」という法号を授かる。ある夜、比叡山延暦寺の叡南祖賢大僧正の夢枕に大黒天が現れ、1956年5月、福田実衍大僧正が大黒天像を持って孝道山を訪れる(1990年に大黒堂が落慶)。1960年4月28日、比叡山から「不滅の法燈」を迎える。同年5月、仏舎利殿が落慶。同年10月28日、正貫の長男、正純生まれる。1963年、正貫、アメリカのカルフォルニアのクレアモント大学院で4年半に渡り比較宗教学を修める。同年9月25日、正貫の次男、洋尚生まれる(現在、佐和という妻、宏玄という息子がいる)。1966年1月1日、正貫の三男、宣勝生まれる(現在、智子という妻、悠一と言う息子がいる)。1975年、正純の妻、華蓮、香港にて生まれる。同年1月1日に、正貫、第二世統理に、鄰子、第二世副統理になる。
1976年12月21日、貴美子亡くなる。1978年8月15日、正道亡くなる。
1994年、正純、華蓮と結婚。2002年12月に正純・華蓮の長男・賢祥生まれる。2006年6月11日、正純、第三世統理に、華蓮、第三世副統理になる。
教団の教義・特色
孝道教団とは、歴史的に見ると最澄の法脈を日蓮に次いで表れた教団で、最澄の理論と日蓮の実践を併せ持ったのが岡野正道であると説く。
関連リンク
・新宗教探訪
・公式ウェブサイト