・創始者 高安龍泉総主
・崇拝対象 キンマンモン
・信者数 約1000人
・本部所在地 沖縄県宜野湾市
・聖地所在地 沖縄県南城市
立教の経緯
創始者・高安龍泉(本名:高安六郎。1993年啓示により龍泉に改名。)は、1934年1月3日、沖縄県那覇市で高俊・キヨの6男として生まれる。父親・高俊は劇場を経営しており、高安は小学校を中退し、子役とし活躍する。高安は幼少時に死期や天候、アメリカ軍の空襲を予知し、心配した祖母がユタ(イタコのようなもの)に尋ねると、「この子は万人の口を預かる力を持っている。よう育てなさい。」と言われ、祖母は有名な役者になると解釈していた。1944年9月に高安は台湾に疎開し、本土の人間から防空壕に入れてもらえないなどの差別を受ける。この時に、人が直撃を受け死ぬところを目撃する。恐ろしさのあまりに死の恐怖が高安に付きまとうようになる。
大日本帝国の敗戦が分かったとき、「万歳、日本が敗けた」とはしゃいで外に出た。しかしひとりでに跳んでしまったという。1946年に沖縄に帰り、高安の父は沖縄芝居の一座を旗揚げし、露天の劇場を始める。14歳のときに肺侵潤に罹り、医者が父親に「18歳ぐらいかもしれない」と告げられたのを耳にする。台湾のあの出来事が甦り、心のそこで深い恐怖感に懊悩し続けた。死への恐怖が薄らいだ19歳のある日、友人が急死し、高安はノイローゼになってしまう。そんな高安を救いたいと、母親が生長の家に入信し、渋々高安も生長の家の集会に出かけた。そこで小学校の頃の恩師の夫、中村昌直がいて、「人間は死なない」と告げられ、高安に安心感を齎す。高安は芝居で人気を集め、沖縄ではかなりの有名人となる。しかし高安は宗教の世界に消え、生長の家の講師試験に合格。幹部に昇進し、32歳のときに生長の家沖縄県教化部講師会長に就き、沖縄宗教を使い信者を指導し、病気に対し手を当てて治すこともしていた。しかし生長の家側との間に確執を生み、「生長の家の名を着たユタ」と非難され、高安も生長の家の皇室崇拝には馴染めないでいたため、36歳のときに生長の家を辞める。その後、「我は、琉球の神である。すでに360年間もの間、我はあなたたちの前に姿を現してはおらぬ。我の名は、キミマンモム(1990年に「キンマンモン」に改められた)と申す」という声を聞く。そして声の主から書店と本棚の位置と本の名前を告げられる。その書物(「琉球神道記」袋中良定著)によりキンマンモンを感得し、その年に、山陰神道の山陰基央に出会い、一時期交流を続ける。そしてインドを歩き、那覇市に「琉球神道龍泉の会」を設立。1974年に機関紙「龍泉」を創刊。1975年に故稲嶺恵一参議院議員の応援により那覇市首里に道場を開く。1977年に平日毎晩、エフエム沖縄で法話を行い、沖縄県南城市の斎場御嶽(せいふぁううたき)をチヂハナ御嶽と呼び、いじゅんの聖地とした。
1980年、宗教法人龍泉とし宗教法人登記。1983年に現在の総本山を宜野湾市に創設する。1981年に供養大浄焔祭(天童を供養する行事。天童とは水子のことである)を開催し、その後水子供養を売り込んできた者がいた。彼らは献身的に水子供養を宣伝し、1986年に、その一人を理事長に就けた。その理事長は大観音像の建設を計画し、それらの工事の土砂が墓所を埋めることとなり、いじゅんは大きく批判され、理事長らは3億円近くの金を持って姿を消す。教団は混乱し、2ヶ月ほど総本山は閉鎖する。そして高安は大借金を背負うことになり、苦悩の日々が続く。その時啓示を受け、パワープレイの力を与えられる。これは、右手を天空に向けて宇宙のエネルギーを受け、受信者に注ぐという一種の手かざしである。1993年いじゅんに改称。
なお、現在は教団の活動を停止している。
・崇拝対象 キンマンモン
・信者数 約1000人
・本部所在地 沖縄県宜野湾市
・聖地所在地 沖縄県南城市
教団の発祥
原始時代の琉球
原始時代の琉球は、龍宮、楽園そのものの国だった。人々は琉球の主神・キンマンモンを崇拝し、この神がいるニライ・カナイ(東方の楽土)に意識を合わせ瞑想に励んでいた。この時代をハダカユーと呼んでいる。けれども13世紀半ばから権力が横行する按司時代に変わる。人間はエゴを先行するようになってしまい、人間自我王国になってしまう。三山時代の山北王国では、キンマンモンを国の最高神とし、尊んでいたのだが、この神さ政治的実権者の神とされて、人々の神とはされてなかった。その後、政治家は、キンマンモンをエゴ意識で吸った。察度王統の察度は大真物、第1尚氏王統の尚思紹は君氏真物というのをそれぞれ王国の名として使用した。これは君真物(キンマンモン)の名に似せてつけた名前である。第2尚氏王統では、自分たちに関係ないものとし、祀らなかった。そのようなエゴを先行させた心が、薩摩の侵攻を齎し、琉球は制圧されるという目に遭う。キンマンモンはこの頃、完全に姿を隠してしまった。近代になっても琉球は落ち着かない。そんな中、1973年にキンマンモンが360年ぶりに高安龍泉の元に降臨する。立教の経緯
創始者・高安龍泉(本名:高安六郎。1993年啓示により龍泉に改名。)は、1934年1月3日、沖縄県那覇市で高俊・キヨの6男として生まれる。父親・高俊は劇場を経営しており、高安は小学校を中退し、子役とし活躍する。高安は幼少時に死期や天候、アメリカ軍の空襲を予知し、心配した祖母がユタ(イタコのようなもの)に尋ねると、「この子は万人の口を預かる力を持っている。よう育てなさい。」と言われ、祖母は有名な役者になると解釈していた。1944年9月に高安は台湾に疎開し、本土の人間から防空壕に入れてもらえないなどの差別を受ける。この時に、人が直撃を受け死ぬところを目撃する。恐ろしさのあまりに死の恐怖が高安に付きまとうようになる。
大日本帝国の敗戦が分かったとき、「万歳、日本が敗けた」とはしゃいで外に出た。しかしひとりでに跳んでしまったという。1946年に沖縄に帰り、高安の父は沖縄芝居の一座を旗揚げし、露天の劇場を始める。14歳のときに肺侵潤に罹り、医者が父親に「18歳ぐらいかもしれない」と告げられたのを耳にする。台湾のあの出来事が甦り、心のそこで深い恐怖感に懊悩し続けた。死への恐怖が薄らいだ19歳のある日、友人が急死し、高安はノイローゼになってしまう。そんな高安を救いたいと、母親が生長の家に入信し、渋々高安も生長の家の集会に出かけた。そこで小学校の頃の恩師の夫、中村昌直がいて、「人間は死なない」と告げられ、高安に安心感を齎す。高安は芝居で人気を集め、沖縄ではかなりの有名人となる。しかし高安は宗教の世界に消え、生長の家の講師試験に合格。幹部に昇進し、32歳のときに生長の家沖縄県教化部講師会長に就き、沖縄宗教を使い信者を指導し、病気に対し手を当てて治すこともしていた。しかし生長の家側との間に確執を生み、「生長の家の名を着たユタ」と非難され、高安も生長の家の皇室崇拝には馴染めないでいたため、36歳のときに生長の家を辞める。その後、「我は、琉球の神である。すでに360年間もの間、我はあなたたちの前に姿を現してはおらぬ。我の名は、キミマンモム(1990年に「キンマンモン」に改められた)と申す」という声を聞く。そして声の主から書店と本棚の位置と本の名前を告げられる。その書物(「琉球神道記」袋中良定著)によりキンマンモンを感得し、その年に、山陰神道の山陰基央に出会い、一時期交流を続ける。そしてインドを歩き、那覇市に「琉球神道龍泉の会」を設立。1974年に機関紙「龍泉」を創刊。1975年に故稲嶺恵一参議院議員の応援により那覇市首里に道場を開く。1977年に平日毎晩、エフエム沖縄で法話を行い、沖縄県南城市の斎場御嶽(せいふぁううたき)をチヂハナ御嶽と呼び、いじゅんの聖地とした。
1980年、宗教法人龍泉とし宗教法人登記。1983年に現在の総本山を宜野湾市に創設する。1981年に供養大浄焔祭(天童を供養する行事。天童とは水子のことである)を開催し、その後水子供養を売り込んできた者がいた。彼らは献身的に水子供養を宣伝し、1986年に、その一人を理事長に就けた。その理事長は大観音像の建設を計画し、それらの工事の土砂が墓所を埋めることとなり、いじゅんは大きく批判され、理事長らは3億円近くの金を持って姿を消す。教団は混乱し、2ヶ月ほど総本山は閉鎖する。そして高安は大借金を背負うことになり、苦悩の日々が続く。その時啓示を受け、パワープレイの力を与えられる。これは、右手を天空に向けて宇宙のエネルギーを受け、受信者に注ぐという一種の手かざしである。1993年いじゅんに改称。
なお、現在は教団の活動を停止している。
教団の教義・特色
高安はこの教団を「琉球の精神世界をアピールする母体」としていて、キンマンモンを宇宙を創造した神としている。ミュージシャンの喜納昌吉はこの団体を「神量(エネルギーの埋蔵量)の大きいものを預かっている」と言っており、教団の行事にも参加したりしている。いじゅん思想は原点回帰の思想といい、原点に還るときに光明の霊的エネルギーが湧出すると説いている。