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カテゴリ : 諸教系

・創始者:福永法源
・本部所在地:静岡県富士市
 
教団の沿革
立教までの経緯
 創始者、福永法源(本名:福永輝義)は、1945年4月5日、山口県山口市(当時の吉城郡阿知須)に生まれる。父は福永の出生前である1944年の冬に戦死した。バシー海峡を通りフィリピンへの航海中に攻撃を受け沈没したという。母・井本房子は地元の旧家に生まれ、結婚前までは裕福な暮らしをしていた。
 福永が3歳の時に、洋裁を学ぶため母は東京へ行ったため、母の実家で暮らすようになる。当時福永には姉がいたが、姉は5歳の時赤痢で他界した。小学校から山口県宇部市で生活するようになり、東京から戻った母と暮らすようになる。母はこの時地元の洋裁学校での勤務を始めたという。福永は12歳の時に坐禅に通い始め、どもりを治すために地元のお遍路である秋穂八十八ヶ所を巡礼した。また、13歳から14歳にかけては生長の家に毎日通い続けた。
 高校は宇部工業高校夜間部に進学し、部活は柔道部をやっていた。昼間は山口県立医科大の解剖学教室で解剖の手伝いや死体磨きのアルバイトをしていた。高校を卒業するときにアルバイト先の教授に推薦され、最初は辞退したものの、法政短大工学部に進学。のちに東芝の小向工場技術開発室に勤務し始める。
 1968年、23歳の時に独立し、「東和技研工業株式会社」を起業。この頃山口県宇部市の宗教団体「自然の泉」に母の影響で通っていた。起業当初は貧しく、経営の傍ら工事現場で働いたこともあったが、30歳の時に横浜駅前に自社ビルを建設するまでに成長した。しかし1979年、34歳の時、手形詐欺に遭い、5億円の負債を背負い会社が倒産する。
 これにより福永は自殺を考え、自宅アパートでガス栓をひねる。その時天声を受け、これをきっかけに「人類救済事行」の事行家となることを決意。その後1977年1月6日午前2時に、福永の元に朝比奈草源や良寛といった高僧や、キリストや釈迦が現れる。また「地上最後の救済者として、法の手を持って人々を導き、法の足で持って歩み続けよ」と天声を受けたという。

宗教活動の開始後
 1977年3月21日、福永は初講演会である「天声開説講演会」を東京・渋谷の東住協ビルにて開催。これをきっかけに全国で福永の講演会で始まる。1984年2月1日、東京・音羽に「人間道場」を建設。1987年には宗教法人法の華三法行として静岡県の宗教法人認証を受ける。同年3月には静岡県富士市に「富士天声村」とされる研修施設を建設。当時は人類救済の象徴とされる「天地堂」のみだったが、広い敷地を持つ天声村には多くの施設が建設された。1990年9月13日に教団傘下の出版社「アースエイド」を設立。1991年9月17日に教団の外郭団体である「ゼロの力学」を設立。1993年4月5日に東京・渋谷に「ゼロの力学本庁・アースエイド松濤会館」を建設。同年には行者(信者)数が10万人となった。1999年3月に、福永は都知事選の出馬を表明するが、後日取りやめとなった。
 教勢は広がったように見えたが、2000万円の「天行力仏舎利塔」や1000万円の額入りの教祖の手形色紙などの売り付けや多額の「(おも)いの定め(献金のこと)」による研修の参加などが詐欺罪に問われた。2000年5月9日、これにより教祖の福永法源など教団幹部計12人が詐欺容疑で摘発された。2001年03月29日には教団は破産宣告を受け、宗教法人解散となった。2005年7月15日に福永は東京地裁に懲役12年を言い渡された。2013年7月現在福永は収監中の身にある。
 なお現在は、実質的な法の華の後継団体「天華の救済」が活動をしている。 

 教団の行事
 年1回行われた教団最大の行事に「天行力大祭」がある。これは1年に1回、天からのエネルギーである「超天行力」が降り注ぎ、「天声」が示される重要な祭典だった。1987年、天行力大祭の前身である「天行力実演会」が東京・大塚の天風会館で開催。1988年に第1回の天行力大祭がスタート。当初は教団施設である天声村で行われたが、1994年から1996年の最盛期には、東京ドームで行われた。1995年の大祭では、文化人の吉村作治が出演した。また、2000年12月6日に東京渋谷の教団施設である「天行力宇宙エネルギー館」にて行われた「超天行力大祭21」が最後の天行力大祭となった。なお、現在は実質的後継団体の天華の救済が「超天行力天授大祭」を毎年12月に開催している。

教団のメディア
 機関紙である「さくら新聞」(当初は「ちえのわ新聞」)、機関誌に月刊「ゼロの力学」や月刊「アースエイド」、「あさなる」がある。月刊「アースエイド」は、国内初の民間環境月刊誌とされている。「アースエイド」や「ゼロの力学」では、サッチャー、きんさんぎんさん、九重貢(千代の富士)、デヴィ夫人、吉村作治、ゴルバチョフ等の著名人と福永の対談が多く掲載された。また、光文社の週刊宝石や週刊女性自身では、アグネス・チャン、水野晴郎、加藤茶、内藤剛志、加山雄三等の芸能人と福永の対談が掲載された。
 教団の衛星放送である「天声サテライト・ネットワーク」が1994年12月10日に開始され、教団の行事などの中継がされた。 

関連リンク
天華の救済(実質的な後継団体のウェブサイト)

・創始者 善川三朗、大川隆法
・本部所在地 東京都品川区(聖地は徳島県に3軒、総本山は栃木県に4軒ある)
・信者数 1000万人以上(1995年現在)
・崇拝対象 主エル・カンターレ
・教典 『仏説・正心法語』など
・機関誌 月刊幸福の科学など

教団の沿革

善川三朗について
 教団の名誉顧問である善川三朗(本名:中川忠義)は、1921年11月20日(実際はこれより少し前だとされる)に生まれる。善川は、若いころから宗教に対して関心があり、矢内原忠雄(東大総長で、幸福の科学ではペテロの再出と位置づけられている)の指導する無教会派でキリスト教を学び、生長の家創始者である谷口雅春の指導も受けたことがあると言う。その一方、日本共産党の徳島県委員会で活動していた時期もあったという。
 善川は、徳島県庁に長い間勤め、畜産コンサルタントとして農家の経営指導をしていた。善川の前世は日蓮の弟子である日朗や、善無畏三蔵であると教団では教えられている。
  息子の大川と共に幸福の科学を立教し活動していたが、1992年6月、善川は顧問から最高顧問となり、実質上の引退となった。2003年8月12日、善川は他界。

大川隆法について
 創始者・大川隆法総裁は、1956年7月7日、善川三朗と教団の名誉秘書長である中川君子の次男として、徳島県吉野川市にて生まれる。小学校高学年の頃、高熱を出し寝ていた時に、幽体離脱を何度もして、天国から地獄の阿鼻叫喚地獄までを見てきたという。中学は川島中学校、高校は城南高校、大学は一浪の末に東京大学文化一類に進学。大川は大学2年の頃に初恋を経験し、ラブレターを書きまくり小包にして送った。これが半年ほど続いたが、やっと届いた返事が便箋1枚で、落胆したという。
大学の卒業が近づき、一留し司法試験を受けたが論文試験で不合格。国家公務員上級試験も受けたがこれもうまくいかず、豊田通商(当時のトーメン)に就職。1981年3月23日、日蓮の弟子である日興上人により自動書記を受ける。1982年から1983年にかけて会社の研修生としてニューヨーク本社に派遣され、1985年7月には初の書籍である「日蓮聖人の霊言」を刊行。1986年7月15日に退社。同年10月に、東京都杉並区の木造アパートに事務所を開いて幸福の科学を設立した。この幸福の科学の名称の由来は、日蓮から幸福科学とでも言うべきものをつくりたいのだと霊言されたからだという。1988年4月、東大を卒業したばかりの木村恭子、現在の大川きょう子と結婚した。

大川きょう子について
 大川の妻であった大川きょう子は、1965年8月22日、秋田県由利本荘市にて、地元の開業医の娘として生まれる。小学校は矢島小学校、中学校は秋田大学附属中学校高校は東京学芸大学附属高校、大学は東京大学文学部英文科に進学。大学生の頃、幸福の科学秋期研修の参加をきっかけとして霊道を開き、彼女の守護霊から結婚の相手が大川隆法であることを告げらる。同じく隆法も同じ事を指導霊から言われ、1回目のデートできょう子と隆法は婚約した。現在は副総裁、総裁補佐、アフロディーテ会会長、名誉立宗補佐、名誉相談役、幸福実現党2代党首を経て教団から追放されている。また、かつて大川きょう子の前世は、ナイチンゲール、文殊菩薩、アフロディーテであると教団では説かれていたが、現在は聖書に出てくるユダに格下げ(?)されている。

大川宏洋について
 1989年2月24日、大川隆法・きょう子の長男である大川宏洋が生まれる。宏洋は現在教団の常務理事、総裁室長、理事長、総裁特命担当・映像事業統括を経て現在教団内では幸福の科学学園副理事長の職に就いている。また、一般の民間企業に勤務している。

大川咲也加について
 1991年2月16日、大川隆法・きょう子の長女である大川咲也加が生まれる。現在は総裁室秘書部長、副理事、理事、を経て常務理事(兼)宗務本部総裁室長の職に就いている。お茶の水女子大学文教育学部卒業。

教団の立教後
 1987年12月24日、関連企業である幸福の科学出版を設立。
 1991年3月7日、宗教法人格を取得。同年、写真週刊誌フライデーに大川隆法のスキャンダル記事が載り、出版元である講談社への抗議が行われ、同年9月6日には会長を景山民夫、副会長を小川知子として「講談社フライデー全国被害者の会」を設立。このような一連の行動は世間の注目を浴び、教団内では「希望の革命」と呼ばれている。10月には教団のラジオ番組「天使のモーニングコール」が放送開始した。

 2005年9月、愛・地球博のネパール館にて展示されたネパール寺院を2億円にて買い取り、教団施設である総本山・正心館内のネパール釈尊館に移築した。
 2009年5月10日、同教団の常務執行理事だった饗庭直道を党首として(現在の党首は立木秀学)、「幸福実現党」の結党宣言を行い、都議選、仙台市長選、衆院選に候補者を擁立したが、全員落選した。
 2010年、栃木県那須の総本山・那須精舎内に幸福の科学学園中学校・高等学校を開校。2013年には滋賀県大津市に幸福の科学学園関西校中学校・高等学校を開校。2015年には千葉県長生村の千葉正心館の隣接地に幸福の科学大学を開学予定。

教団の教義

 正しき心の探究と、愛、知、反省、発展の四正道が基本的な教義である。
 大川隆法は、最高神であるエル・カンターレであり、隆法の前世はインドの釈尊、ギリシャのヘルメス、オフェアリス、インカ帝国のリエント・アール・クラウド、アトランティスのトス、ムー大陸のラ・ムーであると言う。
 死後の世界は、大きく四次元から九次元まで分かれ、地獄はその四次元の中の一部にあると説く。創価学会2代会長戸田城聖や新義真言宗の開祖・覚鑁は地獄界の住人であり、覚鑁は現代でも真如苑と阿含宗の2つの教団を支配しているという。
 なお、谷口雅春は七次元と八次元の間に位置する梵天界の住人であり、谷口の前世はプロティノス、伊邪那岐命であり、生前谷口を指導していた霊は、天御中主神であったという。

教団の映画

 これまで、幸福の科学出版は、実写映画である「ノストラダムス戦慄の啓示」「ファイナル・ジャッジメント」と、アニメ映画である「ヘルメス 愛は風の如く」「太陽の法」「黄金の法」「永遠の法」「仏陀再誕」「神秘の法」を制作。すべての映画の原作・製作総指揮が大川隆法、音楽が水澤有一である。
 アニメ映画では、大川隆法の前世や彼をモチーフとした人物及びエル・カンターレ役は子安武人が演じており、他、伊藤美紀(大川きょう子の前世などを演じた)などの有名声優が教団の映画に出演した。

有名人の同教団信者

 小川知子(女優)、田中順子(元ニュースキャスター、天使のモーニングコール前パーソナリティー、幸福実現党広報本部長)、河口純之助(元ブルーハーツ)、さとうふみや(漫画家)、景山民夫(作家)、芦川よしみ(女優、天使のモーニングコール元パーソナリティー)、白倉律子(ボイスタレント、天使のモーニングコールパーソナリティー)、ウ・ソンミン(歌手、「仏陀再誕」の主題歌を歌う)、石山タカ明(アニメ監督、教団のアニメを制作)など。

関連リンク

公式ウェブサイト
幸福の科学グループウェブサイト
幸福の科学法務部
精舎ポータルサイト

教団に批判的なもの
幸福の科学 その実態
アンチ 幸福の科学
幸福の科学 内部告発ログ集
獏論[幸福の科学アラカルト]
NO MORE 幸福の科学
元・幸福の科学信者のブログ
HSログ倉庫番
幸福の科学精舎非公式ガイド

・創始者 高安龍泉総主
・崇拝対象 キンマンモン
・信者数 約1000人
・本部所在地 沖縄県宜野湾市
・聖地所在地 沖縄県南城市

教団の発祥

原始時代の琉球
 原始時代の琉球は、龍宮、楽園そのものの国だった。人々は琉球の主神・キンマンモンを崇拝し、この神がいるニライ・カナイ(東方の楽土)に意識を合わせ瞑想に励んでいた。この時代をハダカユーと呼んでいる。けれども13世紀半ばから権力が横行する按司時代に変わる。人間はエゴを先行するようになってしまい、人間自我王国になってしまう。三山時代の山北王国では、キンマンモンを国の最高神とし、尊んでいたのだが、この神さ政治的実権者の神とされて、人々の神とはされてなかった。その後、政治家は、キンマンモンをエゴ意識で吸った。察度王統の察度は大真物、第1尚氏王統の尚思紹は君氏真物というのをそれぞれ王国の名として使用した。これは君真物(キンマンモン)の名に似せてつけた名前である。第2尚氏王統では、自分たちに関係ないものとし、祀らなかった。そのようなエゴを先行させた心が、薩摩の侵攻を齎し、琉球は制圧されるという目に遭う。キンマンモンはこの頃、完全に姿を隠してしまった。近代になっても琉球は落ち着かない。そんな中、1973年にキンマンモンが360年ぶりに高安龍泉の元に降臨する。

立教の経緯
 創始者・高安龍泉(本名:高安六郎。1993年啓示により龍泉に改名。)は、1934年1月3日、沖縄県那覇市で高俊・キヨの6男として生まれる。父親・高俊は劇場を経営しており、高安は小学校を中退し、子役とし活躍する。高安は幼少時に死期や天候、アメリカ軍の空襲を予知し、心配した祖母がユタ(イタコのようなもの)に尋ねると、「この子は万人の口を預かる力を持っている。よう育てなさい。」と言われ、祖母は有名な役者になると解釈していた。1944年9月に高安は台湾に疎開し、本土の人間から防空壕に入れてもらえないなどの差別を受ける。この時に、人が直撃を受け死ぬところを目撃する。恐ろしさのあまりに死の恐怖が高安に付きまとうようになる。
 大日本帝国の敗戦が分かったとき、「万歳、日本が敗けた」とはしゃいで外に出た。しかしひとりでに跳んでしまったという。1946年に沖縄に帰り、高安の父は沖縄芝居の一座を旗揚げし、露天の劇場を始める。14歳のときに肺侵潤に罹り、医者が父親に「18歳ぐらいかもしれない」と告げられたのを耳にする。台湾のあの出来事が甦り、心のそこで深い恐怖感に懊悩し続けた。死への恐怖が薄らいだ19歳のある日、友人が急死し、高安はノイローゼになってしまう。そんな高安を救いたいと、母親が生長の家に入信し、渋々高安も生長の家の集会に出かけた。そこで小学校の頃の恩師の夫、中村昌直がいて、「人間は死なない」と告げられ、高安に安心感を齎す。高安は芝居で人気を集め、沖縄ではかなりの有名人となる。しかし高安は宗教の世界に消え、生長の家の講師試験に合格。幹部に昇進し、32歳のときに生長の家沖縄県教化部講師会長に就き、沖縄宗教を使い信者を指導し、病気に対し手を当てて治すこともしていた。しかし生長の家側との間に確執を生み、「生長の家の名を着たユタ」と非難され、高安も生長の家の皇室崇拝には馴染めないでいたため、36歳のときに生長の家を辞める。その後、「我は、琉球の神である。すでに360年間もの間、我はあなたたちの前に姿を現してはおらぬ。我の名は、キミマンモム(1990年に「キンマンモン」に改められた)と申す」という声を聞く。そして声の主から書店と本棚の位置と本の名前を告げられる。その書物(「琉球神道記」袋中良定著)によりキンマンモンを感得し、その年に、山陰神道の山陰基央に出会い、一時期交流を続ける。そしてインドを歩き、那覇市に「琉球神道龍泉の会」を設立。1974年に機関紙「龍泉」を創刊。1975年に故稲嶺恵一参議院議員の応援により那覇市首里に道場を開く。1977年に平日毎晩、エフエム沖縄で法話を行い、沖縄県南城市の斎場御嶽(せいふぁううたき)をチヂハナ御嶽と呼び、いじゅんの聖地とした。

 1980年、宗教法人龍泉とし宗教法人登記。1983年に現在の総本山を宜野湾市に創設する。1981年に供養大浄焔祭(天童を供養する行事。天童とは水子のことである)を開催し、その後水子供養を売り込んできた者がいた。彼らは献身的に水子供養を宣伝し、1986年に、その一人を理事長に就けた。その理事長は大観音像の建設を計画し、それらの工事の土砂が墓所を埋めることとなり、いじゅんは大きく批判され、理事長らは3億円近くの金を持って姿を消す。教団は混乱し、2ヶ月ほど総本山は閉鎖する。そして高安は大借金を背負うことになり、苦悩の日々が続く。その時啓示を受け、パワープレイの力を与えられる。これは、右手を天空に向けて宇宙のエネルギーを受け、受信者に注ぐという一種の手かざしである。1993年いじゅんに改称。
なお、現在は教団の活動を停止している。

教団の教義・特色

 高安はこの教団を「琉球の精神世界をアピールする母体」としていて、キンマンモンを宇宙を創造した神としている。ミュージシャンの喜納昌吉はこの団体を「神量(エネルギーの埋蔵量)の大きいものを預かっている」と言っており、教団の行事にも参加したりしている。いじゅん思想は原点回帰の思想といい、原点に還るときに光明の霊的エネルギーが湧出すると説いている。

・創始者 凰翆ノ命
・信者数 500人
・本部所在地 埼玉県新座市
・崇拝対象 天音大御神

教団の沿革

 創始者の凰翆ノ命(本名:小関育子)は、1940年2月に新潟県糸魚川市の物療師の4女に生まれた。3歳のときから霊視の能力を持ち、1983年2月に、神から「これより『凰翠ノ命』と名乗るがよい。そなたが祈るとき、神は一体となろう。」という啓示を受けて、宗教の世界に入る。同年の4月に、教団を立教した。立教以来本部を尋ねてきた相談者の数は数千人。その大半は婦人で、子供の教育問題や、家庭の問題等の悩み相談である。

教団の特色

 霊視による人生相談を行う。

・創始者 深田千代子教祖
・現継承者 深田充啓教主
・信者数 46万人
・崇拝対象 大御親など
・本部所在地 兵庫県丹波市

教団の沿革

 創始者・深田千代子(本名:いち)は、1887年10月に、兵庫県氷上郡小川村字井原(現在の丹波市)にて、茶屋を経営している深田難吉・カルの長女として生まれる。生家は貧しかったが、父親は近くにある日吉神社に毎朝お参りを欠かしたことがないほど信仰心篤い人だった。母親を早くに亡くした千代子は、三治郎、太市の弟たちの世話をする傍ら、近所の子守に雇われていた。

 深田が20歳の時に、隣村の男で、当時27歳の笹倉三治と結婚し、深田長治初代教主を出産するが、その後夫は伊予に飛白の仕入れに行く途中に、旅中に知り合った2人連れに金品を取られて、毒殺されてしまう。それから1年後の1909年に、深田の住む村にて、芝居の巡業がやってくる。その一座の中の役者・河合静雄がいて、深田は河合を追って大阪に出て、河合と再婚し、大阪市南区円手町(現在の中央区)の長屋に住むようになる。田舎に子どもを残した為、養育費の仕送り、加え夫の河合が金遣いが荒いために深田は色々な仕事に従事すると言う苦しい生活を送っていた。

 そんな生活を送っていた1919年7月16日の33歳の時、深田が、『この女生まれつきよりそなわり 四十になれば神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる生まれであるが、あまり世の中が進み、七年早く行人となり、世の道具になるか、たまで働かすか、姿で働かすか』と言い出した。この「たまで働かすか」のたまとは、この姿のまま7年間神の仕事をするかと言う意味である。夫は「どうぞ姿のままで働かせてください」と思わず答えた。これを機に、深田は独り言を言うようになり、夜通しブツブツ声を出すときもあったという。
 近所の住民は当初深田を変人扱いするようになったが、霊感が当たるようになり、深田を神とする信者が増えていった。深田は信者たちに、「神様の言われた7年の行が終わったときは、自分の死ぬときだ」と予言し、その予言通りに1925年正月6日、39歳にて亡くなった。
 遺弟たちは悲しみにくれるものの、間もなく「円応修法会」と言う教団名で布教をはじめる。戦後になり、千代子の遺児・深田長治教主は、中学校教員を辞め宗教活動に専念し、この頃同教団が組織化されるようになった。1952年、宗教法人登記。

教団の行事

・1月1日 元旦祭
・1月6日 教祖祭(墓前祭、祥月祭)
・2月27日 (または直前の日曜日) 教主誕生祭
・4月6日 春季大祭
・6月26日 大地の御親祭
・7月15日 祖霊祭
・7月16日 (または直前の日曜日) 立教記念祭
・8月6日 平和祈願祭
・10月6日 秋季大祭
・11月23日 円応青年会結成記念大会
・12月6日 感謝祭
その他、毎月5日にお火たき祭、6日に例月祭がある。

関連リンク

公式ウェブサイト
ENSEI(円応教青年会)

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