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カテゴリ : 仏教系

・創始者 関口嘉一
・現継承者 関口德髙
・本部所在地 東京都港区
・信者数 178万3080人
・教典 法華三部経

教団の沿革
 創始者・関口嘉一初代会長は、1897年1月15日、新潟県北蒲原郡の酒屋の長男として生まれる。裕福ながらも複雑な家庭環境にあり、小さい頃から苦労が多かったという。
1911年、14才のときに高等小学校を卒業後、東京の銅鉄物の問屋に6年間年季奉公に出た。1918年、志を抱き北海道に渡るが身体を怖し入院、2年足らずで実家に戻って3年間の療養生活を送る。その生活は精神的、経済的にも非常に辛く、元々忍耐強い嘉一が更に鍛えられたという。
1922年に再出発を図った嘉一は、亜鉛板の貨車1輌分の融通をかつての奉公先の主人に手紙で願い出る。そして、彼の真面目な人柄と、働きぶりをよく知るその主人は、快く元でのない嘉一に応じて、資材を送った。これをもとにして嘉一は自転車業を東京にて始めようと上京。半年の間無給で住み込みの修行に入り、独立をうかがっていたうちに関東大震災を迎える。その後、焼け野原となった東京の神田橋で自転車修理の露店を開き、それが当たって暮れには店舗兼住居を構えるまでになった。

 翌年の正月に、実家の計らいで実家近くに住んでいたトミノと結婚。1925年、生後間もない長女をなくし、その後に生まれた長男も病弱だったため、信心深い家庭で育ったトミノは熱心に神仏への信心を始めた。その後新宿へと移り、関口自転車店を開業。1933年10月、店の隣に住んでいた霊友会の信者から入会の誘いをトミノが受け、それが機縁となり嘉一は法華経と出会う。最初はトミノだけ入信していたが、嘉一も先祖供養の功徳に感動し、2ヶ月程で入信を決意。夫婦で断食や塩断ち、水行などの修行を行い、自転車で毎日布教に出かけるなど、霊友会の熱心な信者となった。この時期に、行をこなし法華経を実践しながら神仏に問いかければ、必ず何らかの答えが得られると確信したという。このようにし、嘉一は3年間で約2万世帯を入信へと導き、1935年には霊友会の第六支部の支部長となっていた。

 1938年には店を譲り、夫婦揃って霊友会の本部へと勤め始める。1949年以降、霊友会は金塊を押収されたり、脱税容疑を受けたりなどがあり、常務理事を務めていた嘉一は霊友会の内部改革に取り組んだが、会長に逆に疎まれて、1950年10月30日、嘉一は佛所護念会を立教。発足した当時の信者数は約3万5千人だった。
1953年には東京の白金台に本部講堂を落慶。嘉一の方針は寄付は一切受けないと言う方針だったため、信者からの借入金で建設された。1950年代後半は信者数が最も伸びていた時期と言われ、1960年8月には青年部が結成。嘉一の三男の德髙が部長に就任し、会の組織化も進んだ。同年11月には皇居で行われた園遊会に嘉一・トミノ夫妻も招待された。この年の暮れから嘉一は体調を崩し、翌年の1961年4月7日に他界した。
 その後トミノが二代会長に就任。1990年トミノは他界し、現在は德髙が三代会長を務めている。

教団の教義
 教義は法華経を基盤とし、先祖供養などを説いている。

関連リンク
公式ウェブサイト

・創始者 宮本ミツ会主、宮本孝平大恩師
・現継承者 宮本丈靖会長
・信者数 102万9841人
・本部所在地 東京都渋谷区
・崇拝対象 十界互具の曼陀羅、佛舎利
・経典 法華三部経、宮本孝平御遺珠、会主説法全集ほか

教団の沿革
 創始者の一人、宮本ミツは、1900年4月15日、石田安太郎とりよの三女として、千葉県九十九里町(当時の千葉県山武郡)にて生まれる。しかし生まれたものの間引きされそうになる。だが、生き残り産湯の代わりに井戸水をつかわされ、水を使ったことからミツの名付けられたという。ミツの父親は熱心な法華経の信者だったため、ミツも幼少時から法華経に接し、漢字も法華経の読誦で覚えたという。

 18歳の時、ミツは電気局に勤めていた宮本孝平と結婚。新婚生活は孝平の妹2人に弟1人が同居していたため貧乏で、ミツは着物縫いの内職をしていた。佛立講の信者だった孝平の勧めにより、ミツも毎日拍子木を叩き題目をとなえ、その熱心さは孝平を追い越していった。ミツが20歳の時、田舎の実家にて長女を出産した時、難産だったため4時間程生死の境を迷い、その時に霊界の体験をしたという。1926年には自転車屋を営むものの、雇った人の裏切りによって借金は増えて、貧しい生活は続いた。3年後にミツを病魔が襲い、33歳の時に入院。毎日題目を唱え、佛立講の寺院からの御講水を毎日飲んだものの良くならず翌年退院。そんな中、ミツの実兄だった石田平の勧めにより18年間続けてきた佛立講を捨て霊友会に入会。その時ミツは体は非常に痩せていて腹膜炎で腹部は膨らんでいた。ミツは朝昼晩とお経をあげて布教活動や水行などの修行を熱心に行なった。1936年暮れ、孝平を支部長とする支部が創立され、この支部は当時の霊友会の最大の支部となった。1945年には、ミツの膨らんでいた腹が平常に戻るが、孝平が胃を悪くし11月に他界。同年、宮本丈靖が長女の婿養子となった。ミツは、霊友会2代会長小谷喜美にいつも叱咤され、盗みの疑いをかけられて、数珠で打たれた事もあったという。

 1949年、霊友会にスキャンダルが起き、1950年10月12日に妙智會教団を開教。ミツが初代会長に就任した。1951年に結成された日蓮門下協議会の常任理事をミツは勤め、1952年に東京にて開かれた第二回世界仏教徒会議代表歓迎国民大会で、歓迎の辞を日本代表として述べた。同教団は、1953年に新日本宗教団体連合会に加盟した。
 1984年、宮本ミツが他界。1987年、宮本丈靖が二代会長に就任。

教団の教義・特色
 根本の教えは、「先祖供養」、「忍喜」、「懺悔」、「感謝」の四つであり、ことのほか「先祖供養」を重視する。他、「教行による人格完成に努力する」、「忍喜による世界平和に邁進する」と言う教団の綱領がある。

関連リンク
ありがとう基金
公式ウェブサイト

・創始者 岡野聖憲
・現継承者 岡野聖法法主
・崇拝対象 天神地祇大神(主斎神)、五智如来(本尊)、解脱金剛
・信者数 18万2815人
・本部所在地 東京都新宿区
・機関誌 「解脱」「YG」
・教典 般若心経

教団の沿革
 創始者・岡野聖憲(幼名:英蔵)は、1881年11月28日、埼玉県北本市(当時の埼玉県北足立郡)の農家・岡野牧太郎、きせの次男として生まれる。
 1888年8歳で尋常小学校入学。1894年、東京の酒屋に奉公に出た。岡野は農業より商業を好んでいた。岡野は家の都合により実家に戻されるものの、農業の片手間ならと父親に商売を許され、賃機の商売を始めたが、失敗。1904年5月には朝鮮に渡り、翌年帰国。帰国後は織物業を再開。事業は順調で、召集に応じていた兄に代わって一家を切り盛りする。
その後事業が傾き1908年に脱税容疑で岡野は摘発される。家にその累が及ばぬように分家するものの、多額の借金返済のため実家は没落の一途をたどり、岡野は東京で働こうとするがうまく行かず、一時は浮浪者同然となった。
 沖仲仕として回漕店に入った岡野は、その仕事ぶりが認められて、1913年には別の店に引き抜かれるほどになり、彼は急に豊かになり、回漕店に勤める側ら仲間とともに金融会社等を開く。1916年から岡野の地元で始まった北本駅開設運動には、多額の寄付をするなど、彼は地元の発展のための援助を熱心に行った。1922年には勤めていた店から独立。海運業を始め、より一層働き財をなす一方享楽的な生活を送るようになり、芸者置屋や四谷に料亭を開き当時の内縁の妻に経営させたりする。

 1925年の春頃から岡野は、高熱を発す病気に罹り、死は間近いと診断される。そうしたある日、岡野は昏睡状態の中うわ言で、「甘茶、甘茶」と呟き、母は水さえ喉を通らなかった岡野に甘茶を飲ませると、甘茶だけは不思議と飲み込めた。こうして、甘茶を飲み続けるようになるが、容態はよくならず、それどころか半月を過ぎると、岡野の体から異臭が漂うようになった。そして昏睡状態は続いたままだった。岡野は唸され夢の中で恐怖の声を放つ。
 そのうち岡野は恐怖が薄れ、おぞましい気が満ちている世界が身の回りから消え、心が清らかにすんでいったのを覚えたという。その後岡野は血の混じった膿を吐き始め、吐き終えると彼の顔に生色が甦り、健康が回復した。この体験によって、人心救済の根源的ともいえる力が甘茶には秘められていると岡野は確信した。
 1928年ごろから、岡野は優れた霊能力の持ち主であると評判が広がり始め、岡野を訪れる人が増え出し、そうした人々に甘茶を仏前に供え、そのお下がりを飲むよう熱心にすすめた。そんな岡野を妻は理解できず、その後二人は正式に別れた。1929年1月1日、北本宿の天手力男尊を祀る小祠にて岡野は「太神(おおがみ)を世に出せ」と言う開教の啓示を受け、解脱会を発足した。

 同年5月、岡野は机に向かっていた。その時、岡野はあふれるばかりの力が体内にみなぎってくるのを感じる。その瞬間に巨大な金色の光が体内を貫くと同時に、金色の光が眼の前に渦巻いた。すると金色の霊文字が浮かび上がび、それとともに岡野の手がひとりでに動き出し、文字を写し取りだした。それは、「バン、ウン、タラク、キリク、アク」を意味する霊文字であった。これは、「大日、阿しゅく、宝生、阿弥陀、釈迦」を表す梵字であるが、岡野が写し取った霊文字は梵字そのものではなかったという。1931年には醍醐三法院で得度し、法名を聖憲とする。1940年、岡野は北本宿に「大日本(おおひのもと)精神碑」を建てた。1948年11月4日に岡野は死去した。1953年、岡野の甥である岡野聖法が法燈継承者となる。

教団の教義・特徴
同会独自の行である「秘義三法」を行うと、霊界の実在を確信することが出来、どのように生きるべきかが体験を通じ感得出来るという。「秘義三法」とは、「天茶供養」、「お浄め修法」、「御五法修行」である。

関連リンク
解脱錬心館
公式ウェブサイト

・創始者 木原覚惠・覚法親子
・現継承者 木原覚英管長
・信者数 395,535人
・本部所在地 佐賀県三養基郡

教団の沿革
1905年、木原覚惠・覚法親子が、修行霊観中に、「汝この霊地を観得し、光明念佛身語聖宗発祥の霊地として成就せよ。」と、山住まいの神からお告げがあった。その後木原親子は身語聖信仰の布教、根本道場の整備と、隆盛を祈願して、中山一之滝場の霊石で座禅をし、不動三昧の念仏観法修行をして、仏力加被の霊験を得る。1930年4月に「光明寺」を創立し、1940年5月に「本福寺」と名称変更。1975年に「光明念佛身語聖宗」を立教する。1977年2月、宗教法人登記。

教団の教義
真言密教と浄土系の教えの中心に基づき、身語聖念仏で現世に念仏浄土を建設して、過去、現在、未来の三世の安心立命へと導くと説く。

教団の組織
寺院が72、教会が2、布教所が107ある。教師数は1,596人。

・創始者 覺惠上人
・現継承者 八坂隆憲管長
・崇拝対象 中山不動尊
・信者数 382,290人
・経典 御座文
・機関紙 「こすもす」(月刊)、「めぐみ」(年3回発行)
・本部所在地 福岡県三養基郡

教団の沿革
 覺惠上人(本名:木原松太郎)は、1870年、佐賀県三養基郡基山町仁連寺に、農家の木原要吉の二男として生まれた。24歳のときに結婚し、炭焼、農業、林業などと職業を変えてきた。1910年に、漁の途中に時化に遭い遭難する。木原は、金比羅大権現に祈り、死にそうなところをどうにか助かった。それ以来、信仰の世界に入った木原は、佐賀県基山の山奥で滝行などの修行を行っていた。1912年2月18日、枕元に弘法大師・空海が出現し、木原に向かってこう話したという。
 「釈迦に生まれ遅れること三千年、弘法大師に遅れること一千年。法然、親鸞に遅れること七百年。この世は非常に疑い深く、こういえばああいい、ああいえばこういうのだ。いかに教理経文を朝から晩、晩から朝に説き尽くしても、朝には信じ夕べにはもう疑うのだ。この末世の衆生を真に救わんためには、この衆生の切羽詰まった土壇場の願いを直ちに聞きとどけ、仏智の大功徳を眼の前に授けて驚かさねば、信じる心にならんのだ。故に現世利益をもって本願となし、中山不動と世に出ずるぞ。」と云った。この2月18日を中山身語正宗では、立教の日にしている。同年木原は高野山に入って得度し、覺惠の名を貰う。1921年4月、宗教法人法(当時の宗教法人令)をもとにして、「中山身語正宗」を立教した。

教団の教義
 仏教の新しい一門と自らをそれを認めている「身語正(身に正しく如来の語を授かるという教え)」を基にした教団であると位置づけている。御仏の心を正しく自分自身の成すべきことをし、御仏の心に適った人への生長を催進することを目標としている。また、この教団の信心は仏教の大道にそうものであり、仏教の基本を遜守すると云われている。主な行は、自然とひとつのものになり、心を清くする念仏や滝行を行う、法身如来の直説「御座文」を日夜通読する、「おじひ」で示唆されたことは「おじひ」の侭に実践する。四国八十八ヶ所の巡礼、一回ずつ祈願をして精神鍛練すると云われているお百度参りなどがある。

教団の行事
毎月5日の百万遍供養、毎月18日の護摩祈願、2月18日の立教芝燈大護摩祈願祭、4月27日~29日の開創大法要、7月13日~15日の大施餓鬼秘法会、9月15日の、五重宝塔大供養などがある。

関連リンク
公式ウェブサイト

追記(2011年9月18日)
同教団の施設で、2011年9月に修行の名を借り中学生の少女を死に至らしめる許しがたい事件が発生した。詳細は以下のとおりである。
・ 「滝行」で中2女子死亡 傷害致死容疑 父親と僧侶逮捕 熊本・長洲町 「除霊のため」容疑否認
熊本県警は27日、滝行(たきぎょう)と称して中学2年の娘に流水を浴びせ窒息死させたとして、傷害致死容疑で、父親の熊本市帯山3丁目、会社員舞鴫淳(まいしぎあつし)(50)と、同県長洲町宮野の僧侶木下和昭(56)の両容疑者を逮捕した。県警の調べに舞鴫容疑者は「子どもについている霊を除霊するためだった。溺死したとは理解できない」と容疑を否認。木下容疑者も「水をかけたのは間違いないが修行であり罪にはあたらない」と否認しているという。
県警は、ベルトなどで身動きできなくして顔に約5分間水を浴びせた点を暴行行為と捉えて立件した、としている。
逮捕容疑は8月27日午後9時10分ごろ、木下容疑者宅に隣接する宗教団体の施設で滝行と称し、舞鴫容疑者の次女ともみさん=当時(13)=を椅子に座らせ、ベルトなどで縛り、顔に流水を浴びせ、翌28日午前3時40分ごろ、窒息死させた疑い。
県警によると、ともみさんは小学校高学年から心身の不調を訴え、熊本市内の病院に通院したが回復せず、両親が今年3月ごろに木下容疑者に相談。「霊がついている」と言われ、直後から除霊行為として滝行や読経を行っていたという。
滝行は、約2・5メートルの高さから地下水を浴びせるもので、両容疑者は事件当日ともみさんが意識を失った後に救急車を呼んだが、搬送先の病院で死亡したという。
 (西日本新聞ウェブサイトより)

・100回超す「滝行」…中学生の娘?泣き叫ぶ声
熊本県警によると、会社員舞鴫淳容疑者(50)は、次女ともみさんに「除霊するためにやらないといかん」と強制。教会に行った際はほぼ毎回、顔などに水を浴びせる「滝行」を行った。1回あたり約5分間で、今年3月頃から計100回を超える。ともみさんが嫌がって暴れ出すと、いすに縛り付けたという。
教会と同じ敷地内に住んでいる僧侶木下和昭容疑者(56)。27日午前、教会前で報道陣の取材に応じた妻(61)は「夫は会社勤めをしていた頃から自宅に来た人に仏の声を伝えていたが、3~4年前に会社を辞め、本格的に宗教に携わるようになった」と説明。「悪霊を払うために一生懸命やっていたが、まさかこういうことが起きるとは。残念としかいいようがない」と話した。
「痛い、痛い」――。教会の近所に住む主婦(66)が泣き叫ぶ声を聞くようになったのは今年に入ってから。当初は夜中だけだったが、6月頃からは昼間にも聞こえるようになった。教会には信者とみられる約40人が集まっていることもあった。主婦は「虐待かもしれないと警察に通報しようと思ったこともあった。まさかこんな事件が起こっていたなんて」とショックを隠さない。
嫌がる女性を大人2人が羽交い締めにするように教会内に連れ込む姿を目撃した女性も。近所の男性(70)は「体の悪いところを治すためといって、信者とみられる人がよく来ていた」と、事件に驚いた様子だった。
 (読売新聞ウェブサイトより)
 このような事件は決して許されてはならず、加害者は断罪されてしかるべきである。今後この教団はマスコミからバッシングを受けるであろうが、決して「法難」「弾圧」と言った都合の良い解釈をせず、事件を真摯に受け止め、二度とこのような事件を起こさないよう教団は全力を挙げて取り組むべきである。
 なお、2012年11月現在教団の公式ウェブサイトにはこの事件に関する記述は一切なく、反省の色が感じられない。東日本大震災の支援について書き教団の好感度を上げようとみられているが、震災の支援などヤクザでもしている。この教団は間違いなく社会に害悪をもたらすカルト教団であり、反省が求められる。

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