・創始者 八島義郎
・崇拝対象 天照大御神
・本部所在地 東京都町田市
・信者数 約十万人

教団の沿革

八島義郎の幼少期
 創始者、八島義郎法皇は、1914年8月15日、八島信次・たつの長男として生まれた。生まれは朝鮮半島のチョルラ南道だったが、その後幼少期を長野、奈良、大連、御影で過ごした。八島家は、かつて旗本だった家柄で、父・信次は鹿島建設や大成建設のエリート社員でクリスチャンだった。母・たつもまた名家の出で、高島易断や弘法大師信仰にこっていた。
 八島家は非常に裕福であり、八島は写真や彫刻を趣味としていた。芸術家を志していた八島だが、そのため1931年に家を出ることとなった。

八島義郎の青年期
 父の世話により京都は下京の仏師の弟子となり手腕を発揮するが、スカウトにより一年後に神戸の彫物師の元へ行く。その後義兄を頼り上京。彫刻家の関野聖雲の住み込み弟子となった。優秀だった八島は関野の師匠である高村光雲の仕事を見学したこともあった。これがきっかけで、八島は「八島遥雲」と名乗るようになる。そして関野の元で知り合った仲間の共同生活を送ったが、のちに母が他の親戚が経営する病院の分院で暮らすようになった。
 1934年に徴兵検査をするが、乱視のため兵役を逃れる。
 八島は一時共同生活を送っていた仲間の交通事故死をきっかけに西宮で暮らすようになった。西宮では岩田千虎に教えを乞い甲東園牧場で動物のデッサンをした。この後仏像の彫刻家として大活躍するようになる。
 八島は甲東園牧場の夫人に結婚相手を予言され、その通りに縁談により結婚。子供をもうけるが、八島が芸術に熱中していたため、夫婦仲はよくなかった。
 戦争が終わり、展覧会やスポンサーどころではなくなったため、八島は彫刻をやめざるを得なくなる。「旭機工」と言う会社で倉庫の確保の仕事を始めるが、うまくいった所でやめ、自ら事業を始める。だが事業に失敗し、行商や拾い仕事をしたが生活はよくならなかった。

能勢入山
 八島の父の蔵書が増えたため、八島の元に本が送られた。これをきっかけに、八島は本を読めば貧しさに対する答えが出ると思い、読書に打ち込むようになった。1954年2月、品物の陳列棚や、題目を唱える行者、「妙法」と言う字を夢に見た八島は、母に相談し能勢の日蓮宗寺院である妙見堂を目指した。
 その道中に「妙栄軒」と言う仏具店に行き、八島は主人の老婆に仕事をさせるよう頼んだ。女主人は日蓮を掘るように依頼し、半月後に日蓮像を持って行った。その時妙栄軒の奥に通されたが、そこで夢に出てきた陳列棚を見る。その後女主人に仕事を依頼された。八島は仏像を四体彫ったが、それを購入したのは夢に出てきた行者だった。
 女主人のすすめにより、能勢の山間の杣小屋に移るようになり、仏師を生業として暮らすようになる。そこでキリスト教や仏教を学ぶが、それらの教えに疑問を持つようになった。これをきっかけにし、仏教における「三毒」を消すための修業を始めた。この結果、未来・過去・現在を読み取る能力を八島は身に着けた。

誠成公倫の立教
 1957年11月4日、八島は能勢を下山する。その後兵庫県塚口に会場を設営し、それと並行して関西圏を中心とし出張を続けた。1965年2月、八島と対座した霊感者が、「誠成公倫」と言う言葉を一斉に唱和し、これが会の名称となった。1982年、教団内で行われる「歌唱劇」が始められる。これは、信者によって演じられる歌劇である。
 2010年5月31日、八島は他界した。

教団の教義

 信者の持つ悪い因縁を、八島が持つ力によって浄滅することが出来ると説く。なお、この教団には信者の紹介がないと入信はおろか教団施設への出入りも禁止されている。